自由とはかくなりや(雑記)

ついに年齢的にアラサーという区分に突入した。その一つの表れなのかと勝手に思ったりしているのだが、最近、「すべてを手に入れることはできないんだぞ」という(脳内の)声が聞こえる。「選べ」と。それは「選んでいいんだよ」という風にも、「選ばんと死ぬで」という風にも聞こえる。
 
この間のブログにもちょっと書いたけど、フルタイムで働くようになって、実質的にも、感覚的にも、時間が限られている。限られているのは時間だけではなくて、お金もそうだ。弊社は実績連動給与とかではないので、一カ月働いて得られる給料は決まっている。泣こうがわめこうが、(副業でも始めない限り)金額は変わらない。
その現実が重い。
学生時代は時間なんてほとんど無尽蔵にあったし、幸いにして仕送りをもらっていたので、お金がもう少し欲しいなと思えばバイトをすれば自由に使うことのできる追加収入を得ることができた。
今はそうではない。
ひと月に使うことのできる時間もお金もほとんど決まっている。となると必然的に、何にリソースを投下するかということを選択しなくてはならない。
 
学生時代からそういう実際的な、身の回りのことをきちんとコントロールしてきた人からすれば、何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、なにしろだらしのない学生だったし、卒業して一つ目の就職先はほとんど(というか契約上実際に)フリーランスのような働き方だったので、こういうことを実感するのが人に比べて遅かったのかもしれない。
 
さて、限られたリソースを何に使うか?ということは簡単なようでいて、価値観の根本にかかわる重大ごとだと思う(本当は価値観という言葉はあまり好きではない)。今日の仕事は終わった、さて何をしようか。友達と居酒屋に飲みにいく?本屋で本を買ってカフェで読む?それともまっすぐ家に帰ってギターの練習でもするか?こういう毎日の選択に価値観が表れるし、また自ら選んだことによって逆に、事後的に、価値観が形成されていくということもあると思う。
 
自己啓発本ならここで、さあ人生のゴールと目標を立てましょう!という話になるのだが、別にここではしません(興味がある人は『7つの習慣』をどうぞ。古典になっているだけあって、読む価値はあると思う)。
 
ただ、個人的に一番やっかいなのが、何をしていても時々襲いかかってくる焦燥感のようなものかもしれない。
「こんなことをしている場合なんだろうか」という問いかけは、健全な軌道修正を促す神様の助言の時もあれば、目標に向かって努力している時間や、満ち足りた幸福の時間から人を脱線させる悪魔のささやきの時もある。
そして俺は神様のご助言がたびたびいただけるほど行いのよい人間ではないので、この声が聞こえたときにはだいたい後者である。
だからそういう時には戦うしかない。
「自分のやっていることは間違いじゃない」「一足飛びに『ここではないどこか』へ行くことなんてできないんだぞ」と、懸命に言い聞かせることによって。
 
ということで、飲みとか誘ってもらってもややノリが悪かったりするかもしれませんが、自我形成期にある中学生みたいなもんだと思って許してください。とはいえ、このブログを読んでくれているような人はだいたい友達リストのトップにいる人たちだと思うので(いつもありがとう)、そういう人からの誘いは用事がない限り断りませんが。
 
…じゃあ誰のために書いてるんだろう?
まあとりあえず、自分用のノートとして。