Only the good die young

4月ですね。あちこちでいかにも大学を卒業したての新入社員を見かけます。就職活動とかいうカフカ的に不条理な行事をクリアしてたどり着いた場所がブラック企業とかじゃないといいのだけど。何のスキルもなくたって、若いというのはそれだけで何億円の資本価値がある。どうかそれが時代遅れの上司やらくだらない慣習やらにスポイルされませんように。
 
さて、俺もほぼ未経験の業界に転職して、毎日せっせと勉強中なのだが、ギョーカイというところではしばしば驚くような非常識が常識としてまかり通っていて、愕然とすることがある。
 
金融業界にはフィデューシャリー・デューティー(Fiduciary Duty, 通称FD)という言葉がある。カタカナで書くとわけがわからないが、日本語にすると「受託者責任」。
金融機関、たとえば証券会社は、お客様である投資家のお金を預かって(受託して)、そのお金を運用して、利益を上げるということを商売にしている。その受託者たる証券会社は、真に投資家の利益を最大化する責務がある、ということである。
当たり前といえば当たり前だ。しかしギョーカイではこんなことをわざわざ意味不明なカタカナ語を使ってまで言わなければならないのである。
そして以下のリンクは2017年4月に金融庁の長官が行った講演。
 
ちょっと強引に要約すると、「金融機関はきちんとFDを守ってくださいね。色々複雑な金融商品を売るのはいいですが、それは本当に投資家の利益になっていますか。それぞれの金融商品について、きちんとお客様にリスクを説明してください。」ということだ(*1)。
そしてショッキングなのが、少し長いが以下の引用部分。
 
「こうした話をすると、お客様が正しいことを知れば、現在作っている商品が売れなくなり、 ビジネスモデルが成り立たなくなると心配される金融機関の方がおられるかもしれません。しかし、皆さん、考えてみてください。正しい金融知識を持った顧客には売りづらい商品を作って一般顧客に売るビジネス、手数料獲得が優先され顧客の利益が軽視される結果、 顧客の資産を増やすことが出来ないビジネスは、そもそも社会的に続ける価値があるものですか?こうした商品を組成し、販売している金融機関の経営者は、社員に本当に仕事のやりがいを与えることが出来ているでしょうか?また、こうしたビジネスモデルは、果たして金融機関・金融グループの中長期的な価値向上につながっているのでしょうか?」
 
この発言は「衝撃」をもって受け止められた、という。むしろそのことが衝撃だよ。金融機関なんて海外の大学院でMBAとってるようなエリートがたくさんいるところである。そんな頭のいい人たちにわざわざこういうことを言って聞かせなくてはいけないのである。
お客が知識をつけたら商品が売れなくなると心配する。これ、ごく控えめに申し上げてもウンコだと思うのだが、どうですか?要するに、お客が気がつかなければ損をさせてでも売上をあげればいい、ということだ。
こんなことが何十年にもわたって業界の常識だったのである。
なお金融庁も別に今さら気がついて説教しているわけではない。豚が十分肥えたタイミングを見計らってようやくチクリと言っているだけなのである。まあ、それでも規制を強める方向に進んでいるのは歓迎するべきだろう。
 
例として金融業界を挙げたが、他の商売でも多かれ少なかれ「リテラシーのない客から金をとる」ということは日常行われている。金融商品なみに複雑化しつつある携帯電話のプランも同じだ。「バカは多く金を払え」というのを「それぞれのお客様に最適なプランを提供する」と言い換えているだけだ。最終的に客は自ら選んで金を払うのだから、責任は客にある。販売員はウソをつく必要はない。ただ少々「説明が足りない」だけだ。お客は自分が余分に金を払っているとは気づかず満足、売る側も金を搾り取って満足、win-win。素晴らしい。
 
でも最近では、販売システムを誰にでもわかりやすいものにしたり、事業の透明性をあげようという動きがある。多くのベンチャーが挑戦するFintechには、複雑すぎる金融商品や投資のシステムを民主化しひらいていこうという希望を感じるし、アパレル業界でも、製品の原価や生産工程を表示するブランドが話題だ*2。この調子で「消費者のリテラシーの低さをあてにするようなビジネスはやめませんか?」という提言が特に若い世代からあがるようになったらいいと思う。情報の非対称性や格差を利用するようなビジネスは早晩たちゆかなくなるだろう。

*1:最も端的に問題を表しているのは毎月分配型投資信託という金融商品である。これは多少投資の知識があれば(ほとんどの人には)全くおすすめできない商品だとわかるのだが、なんとこれが日本では一番売れているのである。誰が買っているのか?投資の知識がほとんどない、リタイア後の高齢者である。ちなみに会社の上司から聞いた話では、かつて証券会社がこの毎月分配型を売りまくって儲けている中、ド真面目に海外の超優良株式を集めた投資商品をつくった会社があったそうだが、全く売れなかったという。そういう理想主義的な会社はすべからく潰れていったようだ。まさに、Only the good die young.

*2:ただし、ファッションの価値はその素材だけで決まるわけではない。ブランドという信用や、デザイナーの才能といったものが占める割合は大きい。安易に原価を表示することは、長期的にみたときファッション業界にとってプラスにはならないと思う。

自由とはかくなりや(雑記)

ついに年齢的にアラサーという区分に突入した。その一つの表れなのかと勝手に思ったりしているのだが、最近、「すべてを手に入れることはできないんだぞ」という(脳内の)声が聞こえる。「選べ」と。それは「選んでいいんだよ」という風にも、「選ばんと死ぬで」という風にも聞こえる。
 
この間のブログにもちょっと書いたけど、フルタイムで働くようになって、実質的にも、感覚的にも、時間が限られている。限られているのは時間だけではなくて、お金もそうだ。弊社は実績連動給与とかではないので、一カ月働いて得られる給料は決まっている。泣こうがわめこうが、(副業でも始めない限り)金額は変わらない。
その現実が重い。
学生時代は時間なんてほとんど無尽蔵にあったし、幸いにして仕送りをもらっていたので、お金がもう少し欲しいなと思えばバイトをすれば自由に使うことのできる追加収入を得ることができた。
今はそうではない。
ひと月に使うことのできる時間もお金もほとんど決まっている。となると必然的に、何にリソースを投下するかということを選択しなくてはならない。
 
学生時代からそういう実際的な、身の回りのことをきちんとコントロールしてきた人からすれば、何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、なにしろだらしのない学生だったし、卒業して一つ目の就職先はほとんど(というか契約上実際に)フリーランスのような働き方だったので、こういうことを実感するのが人に比べて遅かったのかもしれない。
 
さて、限られたリソースを何に使うか?ということは簡単なようでいて、価値観の根本にかかわる重大ごとだと思う(本当は価値観という言葉はあまり好きではない)。今日の仕事は終わった、さて何をしようか。友達と居酒屋に飲みにいく?本屋で本を買ってカフェで読む?それともまっすぐ家に帰ってギターの練習でもするか?こういう毎日の選択に価値観が表れるし、また自ら選んだことによって逆に、事後的に、価値観が形成されていくということもあると思う。
 
自己啓発本ならここで、さあ人生のゴールと目標を立てましょう!という話になるのだが、別にここではしません(興味がある人は『7つの習慣』をどうぞ。古典になっているだけあって、読む価値はあると思う)。
 
ただ、個人的に一番やっかいなのが、何をしていても時々襲いかかってくる焦燥感のようなものかもしれない。
「こんなことをしている場合なんだろうか」という問いかけは、健全な軌道修正を促す神様の助言の時もあれば、目標に向かって努力している時間や、満ち足りた幸福の時間から人を脱線させる悪魔のささやきの時もある。
そして俺は神様のご助言がたびたびいただけるほど行いのよい人間ではないので、この声が聞こえたときにはだいたい後者である。
だからそういう時には戦うしかない。
「自分のやっていることは間違いじゃない」「一足飛びに『ここではないどこか』へ行くことなんてできないんだぞ」と、懸命に言い聞かせることによって。
 
ということで、飲みとか誘ってもらってもややノリが悪かったりするかもしれませんが、自我形成期にある中学生みたいなもんだと思って許してください。とはいえ、このブログを読んでくれているような人はだいたい友達リストのトップにいる人たちだと思うので(いつもありがとう)、そういう人からの誘いは用事がない限り断りませんが。
 
…じゃあ誰のために書いてるんだろう?
まあとりあえず、自分用のノートとして。

サラリーマンは一年に何冊本が読めるのか

番外編ということで。
就業時間がかなり不規則だった前職と比べて、良くも悪くも勤務時間が固定されている身分になり(とはいえ一般的なサラリーマンに比べるとうちの勤怠は相当ユルいのだが)、一日に使える自由な時間というのがけっこうはっきり決まっている。
 
で、今せっかく読書ログをとっているので、読書にあてられる時間について考えてみましょう、という。
積読はどこまで許されるのか、Amazonの欲しいものリストに積みあがる膨大な「いつかは読みたい本」たちは本当に死ぬまでに読めるのか。本読みとしてはあまり直視したくない問題であるけど、「残り時間」を計算してみることで、仮説的に考えてみることはできる。
 
そして月収が決まっているサラリーマンは時間面だけじゃなくて、金銭面でもかなり正確なポートフォリオができる。
これはまた機会があればブログにしたいけど、
時間とお金のポートフォリオを作って両方をじっと眺めていると、いろんなことがわかる。
まあすべては理論上の話だけど、一回やってみるとすごく面白いです。
自分用に考えたのまんまなんで適当なとこは見逃してください。
 
<平日>
朝はギリギリまで寝てるんで、起床してから出勤するまでに自由時間はほぼない。
(通勤が長い人は通勤時間は有効活用できますね)
ので、帰宅してから寝る時間までで考えればよい。
19時退勤、20時帰宅、0時就寝。自由時間を3hとする。
 
<休日>
休日はどうしても朝寝坊だし、どっかに食事に行ったりもするし、洗濯・掃除もあったりなんで、自由時間を10hとする。
 
で、週の自由時間は25h。
そのまま計算すると一年の自由時間は1350h。
でも年間休日110日と仮定すると、
一年の自由時間はおよそ1850h。
まあ繁忙期はけっこう残業もあるし、上記二つの計算の間をとって一年の自由時間は1500hくらいかなあ。ガバガバだけど。
 
で、読書について考えてみる。
まず、一冊の本に平均3時間かかるものとする。
まあ現実的に考えて、年間100冊の目標というのが妥当ではないかと思う。
自由時間の5分の1を読書に費やす。どう?
本読みとしてはずいぶん少ないじゃないの、という気がしないでもないけど、
ブレイクダウンしていくと意外とこれはこれで現実的な数字だったりする。
年間100冊ということはひと月に8冊ちょっと。一週間に2冊。これを簡単ととるか難しいととるか。
(もちろん長期休みに集中して本を読めば平均として週2冊は決して難しくはないのだが、できれば個人的には平時からそれくらいは頑張って読みたいところ)
 
ちなみに、お金の話もちょこっと入れると、俺は月の書籍予算を15000円とっている。
15000円を8で割ると、一冊あたり約1850円。
まあ、1500円以下の本であれば悩まずに買ってもよいということになる。
(しかし1800円もする本を月に8冊も買うかといわれるとアヤシイので、書籍代には映画代も含めている。映画ならちょうど一本1800円だ。
もちろん、本はハードカバーや新刊を買う方が多い、という人は書籍代がもっとかかる。)
 
以上。
まあものすごおくザックリつくってこんな感じです。
一冊3時間ってどうなの、とかいろいろあるんだけど、俺にとっては上に出した数字はそこまで現実から乖離していない。
現実は計画通りにいかないですが、それでも計画を立てることは無意味じゃない、と思う。
もっといいやり方があったら教えてください。
 
P.S. 学生時代はこういうことをあんまり考えずに済んで、手当たり次第興味のあるものを読みまくってたしそれでよかったんだよな。ていうか、わざわざ「週2冊読むぞ!」みたいに決意しなくたってバリバリ読んでたんだよね。やれやれ。

2月に読んだ本

2月は引越しもあったわりには人並みに本を読んだ気がする。
でも読んだらすぐに書かないとダメですね。忘れちゃうから。
 

人はなぜ「上京」するのか(難波功士

20世紀から今世紀にかけて、日本の主に若者がどのような夢や志を持ち(あるいは何も持たずに)東京にやってきて、どのように「東京人」になり、そして「離京」するのかを、世代ごとのアイコンとなったミュージシャンや文学者などのアーティスト、コピーライターやデザイナーなどのいわゆるギョーカイ人の名前を挙げながら紐解いていく。という感じなんで、ちょっと固有名詞が多くて、世代じゃないと読みづらい部分もある。
ざっくり流れを言えば、最初は文学者や詩人が東京を目指し、それはやがて団塊世代を経てギョーカイ人への憧れを持った若者たち、そして彼らの挫折を経て、ゼロ年代ファスト風土化と「何気なく上京」へ。今の若者は東京への憧れも大してないようだ。
著者によれば、地方のファスト風土化とはすなわち「トーキョー化」(東京、ではなくてトーキョー、である)。そう考えると、オリジナルのトーキョーが東京にあり、地方はそのコピーになりつつあるのかもしれない。ガンバレ、地方創生。
面白かったのは、ギョーカイ人のくだり。マルキンマルビの話。成功したマルキンクリエイターはファッショナブルな働き方で大金を稼いで高層マンションに住む一方、それに憧れるマルビクリエイターは狭いアパートに住みながらも業界の片隅にぶら下がり続ける。村上春樹の、特に初期の小説の主人公は小さな広告代理店で働いていたり、「文化的雪かき」仕事を続けるライターだったりするのだが、彼らはまさにギョーカイ人としての夢は叶わないながらも、その世界にとどまり続けるマルビクリエイターの姿と重なる(その後の村上春樹作品の主人公の職業はそういったものからは離れていくわけだけど)。
それから東京ネイティブVS上京組の話も面白かった。でも東京なんてほとんど上京組ばっかりだよね。それがいいところでもある。
当然のことながらアーティストであれギョーカイ人であれ東京で夢を手にする人はほんの一握りで、そうでない人は東京の高すぎる物価と家賃に苦しみ続け、あるいは諦めて故郷に帰る方が圧倒的に多いわけで、まさにこれから上京せんとする自分にとってはちょっとテンションの下がる本だった。
 
しかし引っ越してきて2週間たった今のところは東京に対してそれほどネガティブな印象は抱いてない。
なんとなくソワソワした気分の時には仕事終わりに渋谷の雑踏を歩いて帰れるし、大きな本屋も親密な古本屋もたくさんあるし、素敵なカフェもたくさんあるし、あるいはまっすぐ家に帰れば井の頭線沿線のローカルな雰囲気で落ち着ける。ニューヨークに比べたらよっぽど友好的な都市だと思う。まあとにかく物件選びと職場の立地がよかったというのが大きい。始発駅だから朝も座れるしね。
それからどこへ行ってもキラキラした最新のモノが売っている。雨宮まみさんの『東京を生きる』みたいのを地でいく人にとっては、東京は天国と地獄の物凄い場所かもしれないけど、俺は逆に物欲が減退する。おしゃれな人がたくさん歩いているので、わざわざ自分がおしゃれする気分にはならない。キリがない、ということがハッキリ視覚化されているので、俺みたいな庶民のチャチな欲望はシュン、と消えてしまう。そして選択肢が多い、ということは、何も選ばないという選択肢がある人にとってはほとんどプラスにしかならない。もう何年か前、俺の中で若者らしい熱い欲望がたぎっていた頃(というのは半分冗談だけど)に来ていたら、もっと苦しかったかもしれない。でもその頃に比べれば、今は自分にとって必要なものとそうでないものがハッキリしている。何も選ばない、という大人な選択ができるようになってきたのだ。
東京で地味に生きる、というのはそれはそれで理想的である。家賃にさえ目をつむれば、ということだけど。
 
 
読んでいない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール)
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 
ハウツー本のようなタイトルに反して、骨太で本質的なテキスト論。実はこの本、一度何年か前にハードカバーで図書館で借りて読んで、そのあと2016年に文庫化された時に買って、放置していたのを読み返した。正直内容はなんとなくしか覚えていなかったので、改めて読み直す過程でまるで新しい本を読むかのように楽しめた。そしてこの本によれば、実際に俺は毎回新しい本を読んでいるのである。
この本がしょっぱなから投げかけてくる問いは「本を『読んだ』とはいかなる状態なのか」。Cover to cover、つまり、表紙から最後の1ページまで目を通したら、それで読んだことになるのだろうか?誰かと話をしながら目を滑らせた場合はどうだろう?理解できず読み飛ばした箇所がある場合は?10年前に読んだ記憶はあるのだが、中身がさっぱり思い出せない場合は?…と、我々が日常的に「〜を読んだ」という仕方で表す行為は実はそれほど単純ではない。著者は断言する。「読んだことのない本について語ることは決して難しくない。それどころか、むしろ読んでいない方がいいくらいだ」。
私たちが互いにある本について話しているつもりでいる時にも、それは実はその本について話しているのではない。私たちがテキストを読む過程で再構成した、「スクリーンとしての書物」について話しているのである。それはしばしば細部が原典とは異なっていたり、別のテキストと混合していたりする(この本について書かれたこの文章だって、本当に「この本」について書かれているのか、怪しいものだ)。不思議なことに、私たちの会話はそれでも成立する。「読んだ」ことと「読んでいない」ことの境が曖昧になると、いわゆる教養ということの意味も怪しくなってくる。
ところで本の中で「屈辱」という面白いゲームが紹介されている。複数人で、自分がこれまで読んだことのない本の名前を挙げて、他にそれを読んだことのある人がいれば一人につき1ポイント獲得できる、というもの。このゲームのコツは、集団の中で「当然読んでおくべき」とされている本を、「読んでいない」と告白することにある。だからゲームの名前が「屈辱」なのだ。ゲームに勝つためには、己の無教養をさらけ出さなくてはならない。とある大学の英米科に勤めるプライドの高い教授は、ゲームに勝つことで得られる名誉とインテリとしてあるまじき「未読」を開陳することの間で煩悶したすえ、『ハムレット』を読んだことがないと暴露する。見事ゲームには勝ったものの、彼は職を追われたとかなんとか。
日常的に本を読む習慣のある人にとっては、この本を読む前と後では読書に対する意識がガラリと変わってしまうかもしれない。それは教養のコンプレックスから我々を解放し、読書が必然的にはらむ種々の重荷から我々を解き放ってくれる。
ついでにここで告白しておくと、俺は演劇の仕事をしておきながら『ハムレット』をいかなるバージョンにおいても一度も読んだことがない。(ハハハ。参ったか。)
 
 
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 
3度目くらいに読んだ。前回と前々回は野崎さんの訳で読んで、初めて村上訳を手に取った。
村上春樹は何を訳しても村上春樹になってしまうというイメージがあって、もう散々ハルキを読んでるんだから外国文学くらいはなるべくべつの人の訳で読もうと心がけているのだが、『ギャツビー』を読んで、そういう理由で春樹訳を選択肢から外してしまうのはもったいないと思った。
定番になってる新潮社の野崎訳は出たのが数十年前なので、ちょっと古い感じは否めない。詩的なもって回ったような言い回しが出てくると、正直なにを言っているのかわからないところがけっこうある(原著の英語の難しいことよ!)。村上訳はなによりも読みやすい訳で、そういうところが(まったくないとは言わないにせよ)ほとんどない。それに加えて、野崎訳が長く出版されてきただけあってややプレーンなトーンの印象なのに対して、村上訳はもっとキャラクターごとのイメージカラーみたいなものが強調されている印象で、そのことによって『ギャツビー』がいかめしい古典ではなく現代の読者にとっても十分ロマンチックで切ないエンターテイメント性のある物語として読めるようになっているように思う。
あらためて面白いなと思ったのは語り手のニックだった。ギャツビーの愚直な(と言っていいのか)ロマンティシズムに比べてニックはかなりクールというか冷めてるし、頭は切れるがどこか庶民的なところがある。村上作品の「僕」なんかはほとんどニックそのままだ。今にも「やれやれ」と言い出しそうな気配がある。いろんな評伝なんかを読むとフィッツジェラルド=ギャツビーという等式が成り立つので(そしてフィッツジェラルド本人もそうして書いているので)、どうしてもそういう先入観で読んでしまうのだが、実際には書き手のフィッツジェラルドはこの代表作の中でギャツビーとニックに分裂しているのだ。毎晩のようにパーティをやって、帰って来た後で短編をバババッと書いて大衆紙でガバッと稼いでその金でパーティをやる、というフィッツジェラルドとニックは、だいぶイメージが違う。
ヘミングウェイは一度「フィッツジェラルドはあれだけの文学的才能を持ちながら、なぜそれを適当に振りまいて酒なんか飲んでるのかわからない」という趣旨のことを言ったそうだが、フィッツジェラルドという人は巨大な才能と私生活の間で最後まで折り合いがつけられなかったのだろうと思う。アメリカではこの『ギャツビー』はハイスクールの課題図書に指定されて学生はみんな強制的に読まされるらしい(留学した時のホームステイ先のお母ちゃんも読まされたと言っていた。「正直よくわかんなかったわよ」)。日本でいう夏目漱石みたいなものだと思うと、ずいぶんアメリカの学生は派手な国語の授業をやってんだなとか思ったりする。
『ギャツビー』は1925年、アメリカが空前の好景気に浮かれる中で発表された。フィッツジェラルドもニックと同じように、どんちゃん騒ぎの中になにか不穏な空気をかぎとっていたのかもしれない。そして29年、アメリカ経済は大恐慌へと真っ逆さまに落ちていく。これをバブル以後の日本の状況と重ね合わせるならば、ロストジェネレーション以降の若い読者が『ギャツビー』を読む意義もあるんではないかと思う。どん底を経験しながらもろくに教訓らしきものが見出せないという点では、『ギャツビー』もアメリカも日本も一緒か。
つけくわえておくと、今『ギャツビー』を読んで面白かったのは、自分の個人的状況と重ね合わせて読めたから、というところもあったからかもしれない。ニックは中西部の田舎からニューヨークにやってきて、証券会社の営業マンとしてウォール街に就職する。地方から都会に出てきて金融業界っていう点では同じだし、「有価証券の本を買い込んで」勉強するというところにも親近感を覚える。ほかの登場人物たちと違ってお金にあまり執着がないようでいて、なんだかんだウォール街にきちゃうあたり金銭欲がくすぶっているみたいなところもちょっと共感してしまう。俺にもギャツビーみたいな知り合いできないかな。
いつかは英語で読破したい一冊。

2018年1月読んだ本

2017年に読んで面白かった本についてアップしようと思っているうちにもう1月終わりかけてるんでこっちを。

年始のバイトやら引っ越し手続きやらなんやらで忙しくしていたので全然本が読めなかった…。ので、とりあえず2冊だけ(しかも片方は漫画)。思いついたら追記します。

 

町田康『告白』

友人にこれは読んでおいてほしいと言われたので借りて読みました。町田康は『くっすん大黒』と『ゴランノスポン』の短編くらいしか読んだことなかったので比較的軽い印象しかなかったけど、なるほどこれは重かった。実際に明治26年におきた「河内十人斬り」という事件を元に、大阪・赤坂水分村の博打打ち、城戸熊太郎が舎弟の谷弥五郎とともに大量殺人を犯すまでの経緯を描く。「河内十人斬り」は当時ビッグニュースになって、フィクションのネタにされたり、なんと河内音頭の演目になったりしている。800ページを超える大作だけど、全編軽快な河内弁で書かれていて、調子よく読める。三人称で書かれていながら、時々「あかんやつである」とか謎の神視点が入ったり、現代の言葉が出てきたりするのは町田康っぽい。そんな感じで最後までギャグっぽい調子で行くんだが、それでもテーマはドカンと重い。

城戸熊太郎はただの百姓の出のくせに、なんの因果か自分の思弁癖に気がつく。しかし言葉は上手くないので、考えていることが外に出せない。その、自分の思考と表出する言葉のギャップは、そのまま熊太郎の内面と外界のギャップになり、最後の最後、自ら死を遂げるまで埋まることはない(この最後の瞬間の熊太郎の一言がすごい)。頭の中では思弁の渦がぐーるぐるしてんのに、外からは「阿呆な熊太郎がまたなんか酔って阿呆なことしとるわ」としか思われない。辛いことよ。

百姓仕事もせず、博打ばっかしている熊太郎はどっからどうみても「あかんやつ」で、十人も人を殺すとんでもないやつなのだが、では彼の何が「あかんかった」のかは、正直言って、よくわからない。すげえ平たく言えば、「考えすぎよ、熊ちゃん」ってことになる。たぶん村の人々に少しでも熊太郎を理解しようとする気持ちがあれば、そう言っただろう。でも「考えすぎだよ」と言われて、はいそうですか考えるのをやめますというやつがどこにいるか。

こういったテーマで書かれた物語はいくつもあったように思うけど、これだけ物凄い勢いで破滅へ突き進んでいきながら同時に上方のユーモアを一瞬も失わないのが町田康の真骨頂なんだろうと思う。自分で書いといてなんですが、テーマ云々よりは、個々のしょうもないエピソードが何よりも面白い作品なので、ぜひ一度読んでみてください。熊太郎に詩の心か、信頼できる友人か、あるいは村に図書館でもあれば救われたのかな、と考えると心が締めつけられる。

 

ヤマシタトモコ『HER』

いきなり漫画です。ヤマシタトモってBLで有名らしい。そっちは全然詳しくないので知らなかった。『HER』は10代〜30代までの6人の女性に一人ずつフォーカスした短編集。それぞれの話はゆるく絡み合っていて、一話でモブキャラだった女性が次のエピソードの主人公だったり。だいたいどの女性もいわゆる「こじらせ」で、年齢に幅があり地味系から派手系までいるのでそのこじらせ方はそれぞれ違うのだが、とにかくその心理の描かれ方めちゃくちゃリアルじゃないですか?(質問形なのは男の俺が言ってもしょうがないからです)。ここまでリアルに描かれてると一種の残酷さを感じるほどで、マジで女って同性に容赦ねえな、とか思う。でも愛がある。絶対。

俺は「好きな異性のタイプは?」とかしょうもない質問されるとイチローなんでストライクゾーンめちゃくちゃ広いっす、ボール球でも打ちにいきます、とかテキトーなこと言ってるんだけど、それは嘘ではなく、というのもマジで俺は女性に対してはエロスってよりアガペーじゃねえかって思うくらい心が広いからでそれは自分で言うくらい。男の9割にはくたばれって思ってる一方で、女性は何してもオッケー、くらいのとこある。女性は悩みながら生きてるだけで偉いし美しい。ずるい。最近は弱者男性なんつって非モテやら男らしさ批判みたいのがよく取り沙汰されているけど、個人的には(それはめちゃくちゃ大事なことだと思いつつも)あまり興味がもてない。もうこれは生理的なもんでしょうね。

さて、どんな女の子が出てくるかというと。ケース1、美容院で「どうしますか?」「モテたいです」とか言いながら、なんかいまいちモテ系メイク、とか嫌で、てゆーかみんな靴ダサくない?あたしの方が百倍ちゃんとしたヒール履いてんのになんでみんなそれで彼氏つくったりしてるわけ?どいつもこいつもダサい、男はわかってない、みたいな。わかる。男は男で「〇〇さんってなんかいつもこわい靴履いてますよね」とか言いやがる。この「こわい」ってのはなんだろうか?おしゃれすぎる女性はこわい、みたいなやつ。バカじゃねーの。私はちゃんと自分に似合う素敵な靴を選んで履いてるのに、なんでくだらん「モテ系コーデ」みたいな女に騙されるわけ?うんうん。

一方でザ・モテ系みたいな女子が主人公のエピソード。私は一人じゃ何もできない。誰かと一緒じゃないと生きられないから、「モテたい」んじゃないの、「モテないといけない」の。それなのに、なんか努力してきましたみたいな顔して自立してる風の女。「そういうモテそうな顔羨ましい」とか言っていながら、心の中では見下してるんでしょう、あたしのこと。うわ、スッゲー。ここまで描いてる漫画、他にもあったら教えてください。彼氏が途切れないタイプのゆるふわ系(ちょくちょくいるよね)も、こういう地獄を生きているんだろうか。

さて男性諸君、女性はこういう不条理と闘いながら日々を生き抜いているんですよ。見習いなさい…ということではないんだけど。なんだろうか、こういうのって、すごく可愛くないですか?