2月に読んだ本

2月は引越しもあったわりには人並みに本を読んだ気がする。
でも読んだらすぐに書かないとダメですね。忘れちゃうから。
 

人はなぜ「上京」するのか(難波功士

20世紀から今世紀にかけて、日本の主に若者がどのような夢や志を持ち(あるいは何も持たずに)東京にやってきて、どのように「東京人」になり、そして「離京」するのかを、世代ごとのアイコンとなったミュージシャンや文学者などのアーティスト、コピーライターやデザイナーなどのいわゆるギョーカイ人の名前を挙げながら紐解いていく。という感じなんで、ちょっと固有名詞が多くて、世代じゃないと読みづらい部分もある。
ざっくり流れを言えば、最初は文学者や詩人が東京を目指し、それはやがて団塊世代を経てギョーカイ人への憧れを持った若者たち、そして彼らの挫折を経て、ゼロ年代ファスト風土化と「何気なく上京」へ。今の若者は東京への憧れも大してないようだ。
著者によれば、地方のファスト風土化とはすなわち「トーキョー化」(東京、ではなくてトーキョー、である)。そう考えると、オリジナルのトーキョーが東京にあり、地方はそのコピーになりつつあるのかもしれない。ガンバレ、地方創生。
面白かったのは、ギョーカイ人のくだり。マルキンマルビの話。成功したマルキンクリエイターはファッショナブルな働き方で大金を稼いで高層マンションに住む一方、それに憧れるマルビクリエイターは狭いアパートに住みながらも業界の片隅にぶら下がり続ける。村上春樹の、特に初期の小説の主人公は小さな広告代理店で働いていたり、「文化的雪かき」仕事を続けるライターだったりするのだが、彼らはまさにギョーカイ人としての夢は叶わないながらも、その世界にとどまり続けるマルビクリエイターの姿と重なる(その後の村上春樹作品の主人公の職業はそういったものからは離れていくわけだけど)。
それから東京ネイティブVS上京組の話も面白かった。でも東京なんてほとんど上京組ばっかりだよね。それがいいところでもある。
当然のことながらアーティストであれギョーカイ人であれ東京で夢を手にする人はほんの一握りで、そうでない人は東京の高すぎる物価と家賃に苦しみ続け、あるいは諦めて故郷に帰る方が圧倒的に多いわけで、まさにこれから上京せんとする自分にとってはちょっとテンションの下がる本だった。
 
しかし引っ越してきて2週間たった今のところは東京に対してそれほどネガティブな印象は抱いてない。
なんとなくソワソワした気分の時には仕事終わりに渋谷の雑踏を歩いて帰れるし、大きな本屋も親密な古本屋もたくさんあるし、素敵なカフェもたくさんあるし、あるいはまっすぐ家に帰れば井の頭線沿線のローカルな雰囲気で落ち着ける。ニューヨークに比べたらよっぽど友好的な都市だと思う。まあとにかく物件選びと職場の立地がよかったというのが大きい。始発駅だから朝も座れるしね。
それからどこへ行ってもキラキラした最新のモノが売っている。雨宮まみさんの『東京を生きる』みたいのを地でいく人にとっては、東京は天国と地獄の物凄い場所かもしれないけど、俺は逆に物欲が減退する。おしゃれな人がたくさん歩いているので、わざわざ自分がおしゃれする気分にはならない。キリがない、ということがハッキリ視覚化されているので、俺みたいな庶民のチャチな欲望はシュン、と消えてしまう。そして選択肢が多い、ということは、何も選ばないという選択肢がある人にとってはほとんどプラスにしかならない。もう何年か前、俺の中で若者らしい熱い欲望がたぎっていた頃(というのは半分冗談だけど)に来ていたら、もっと苦しかったかもしれない。でもその頃に比べれば、今は自分にとって必要なものとそうでないものがハッキリしている。何も選ばない、という大人な選択ができるようになってきたのだ。
東京で地味に生きる、というのはそれはそれで理想的である。家賃にさえ目をつむれば、ということだけど。
 
 
読んでいない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール)
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 
ハウツー本のようなタイトルに反して、骨太で本質的なテキスト論。実はこの本、一度何年か前にハードカバーで図書館で借りて読んで、そのあと2016年に文庫化された時に買って、放置していたのを読み返した。正直内容はなんとなくしか覚えていなかったので、改めて読み直す過程でまるで新しい本を読むかのように楽しめた。そしてこの本によれば、実際に俺は毎回新しい本を読んでいるのである。
この本がしょっぱなから投げかけてくる問いは「本を『読んだ』とはいかなる状態なのか」。Cover to cover、つまり、表紙から最後の1ページまで目を通したら、それで読んだことになるのだろうか?誰かと話をしながら目を滑らせた場合はどうだろう?理解できず読み飛ばした箇所がある場合は?10年前に読んだ記憶はあるのだが、中身がさっぱり思い出せない場合は?…と、我々が日常的に「〜を読んだ」という仕方で表す行為は実はそれほど単純ではない。著者は断言する。「読んだことのない本について語ることは決して難しくない。それどころか、むしろ読んでいない方がいいくらいだ」。
私たちが互いにある本について話しているつもりでいる時にも、それは実はその本について話しているのではない。私たちがテキストを読む過程で再構成した、「スクリーンとしての書物」について話しているのである。それはしばしば細部が原典とは異なっていたり、別のテキストと混合していたりする(この本について書かれたこの文章だって、本当に「この本」について書かれているのか、怪しいものだ)。不思議なことに、私たちの会話はそれでも成立する。「読んだ」ことと「読んでいない」ことの境が曖昧になると、いわゆる教養ということの意味も怪しくなってくる。
ところで本の中で「屈辱」という面白いゲームが紹介されている。複数人で、自分がこれまで読んだことのない本の名前を挙げて、他にそれを読んだことのある人がいれば一人につき1ポイント獲得できる、というもの。このゲームのコツは、集団の中で「当然読んでおくべき」とされている本を、「読んでいない」と告白することにある。だからゲームの名前が「屈辱」なのだ。ゲームに勝つためには、己の無教養をさらけ出さなくてはならない。とある大学の英米科に勤めるプライドの高い教授は、ゲームに勝つことで得られる名誉とインテリとしてあるまじき「未読」を開陳することの間で煩悶したすえ、『ハムレット』を読んだことがないと暴露する。見事ゲームには勝ったものの、彼は職を追われたとかなんとか。
日常的に本を読む習慣のある人にとっては、この本を読む前と後では読書に対する意識がガラリと変わってしまうかもしれない。それは教養のコンプレックスから我々を解放し、読書が必然的にはらむ種々の重荷から我々を解き放ってくれる。
ついでにここで告白しておくと、俺は演劇の仕事をしておきながら『ハムレット』をいかなるバージョンにおいても一度も読んだことがない。(ハハハ。参ったか。)
 
 
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 
3度目くらいに読んだ。前回と前々回は野崎さんの訳で読んで、初めて村上訳を手に取った。
村上春樹は何を訳しても村上春樹になってしまうというイメージがあって、もう散々ハルキを読んでるんだから外国文学くらいはなるべくべつの人の訳で読もうと心がけているのだが、『ギャツビー』を読んで、そういう理由で春樹訳を選択肢から外してしまうのはもったいないと思った。
定番になってる新潮社の野崎訳は出たのが数十年前なので、ちょっと古い感じは否めない。詩的なもって回ったような言い回しが出てくると、正直なにを言っているのかわからないところがけっこうある(原著の英語の難しいことよ!)。村上訳はなによりも読みやすい訳で、そういうところが(まったくないとは言わないにせよ)ほとんどない。それに加えて、野崎訳が長く出版されてきただけあってややプレーンなトーンの印象なのに対して、村上訳はもっとキャラクターごとのイメージカラーみたいなものが強調されている印象で、そのことによって『ギャツビー』がいかめしい古典ではなく現代の読者にとっても十分ロマンチックで切ないエンターテイメント性のある物語として読めるようになっているように思う。
あらためて面白いなと思ったのは語り手のニックだった。ギャツビーの愚直な(と言っていいのか)ロマンティシズムに比べてニックはかなりクールというか冷めてるし、頭は切れるがどこか庶民的なところがある。村上作品の「僕」なんかはほとんどニックそのままだ。今にも「やれやれ」と言い出しそうな気配がある。いろんな評伝なんかを読むとフィッツジェラルド=ギャツビーという等式が成り立つので(そしてフィッツジェラルド本人もそうして書いているので)、どうしてもそういう先入観で読んでしまうのだが、実際には書き手のフィッツジェラルドはこの代表作の中でギャツビーとニックに分裂しているのだ。毎晩のようにパーティをやって、帰って来た後で短編をバババッと書いて大衆紙でガバッと稼いでその金でパーティをやる、というフィッツジェラルドとニックは、だいぶイメージが違う。
ヘミングウェイは一度「フィッツジェラルドはあれだけの文学的才能を持ちながら、なぜそれを適当に振りまいて酒なんか飲んでるのかわからない」という趣旨のことを言ったそうだが、フィッツジェラルドという人は巨大な才能と私生活の間で最後まで折り合いがつけられなかったのだろうと思う。アメリカではこの『ギャツビー』はハイスクールの課題図書に指定されて学生はみんな強制的に読まされるらしい(留学した時のホームステイ先のお母ちゃんも読まされたと言っていた。「正直よくわかんなかったわよ」)。日本でいう夏目漱石みたいなものだと思うと、ずいぶんアメリカの学生は派手な国語の授業をやってんだなとか思ったりする。
『ギャツビー』は1925年、アメリカが空前の好景気に浮かれる中で発表された。フィッツジェラルドもニックと同じように、どんちゃん騒ぎの中になにか不穏な空気をかぎとっていたのかもしれない。そして29年、アメリカ経済は大恐慌へと真っ逆さまに落ちていく。これをバブル以後の日本の状況と重ね合わせるならば、ロストジェネレーション以降の若い読者が『ギャツビー』を読む意義もあるんではないかと思う。どん底を経験しながらもろくに教訓らしきものが見出せないという点では、『ギャツビー』もアメリカも日本も一緒か。
つけくわえておくと、今『ギャツビー』を読んで面白かったのは、自分の個人的状況と重ね合わせて読めたから、というところもあったからかもしれない。ニックは中西部の田舎からニューヨークにやってきて、証券会社の営業マンとしてウォール街に就職する。地方から都会に出てきて金融業界っていう点では同じだし、「有価証券の本を買い込んで」勉強するというところにも親近感を覚える。ほかの登場人物たちと違ってお金にあまり執着がないようでいて、なんだかんだウォール街にきちゃうあたり金銭欲がくすぶっているみたいなところもちょっと共感してしまう。俺にもギャツビーみたいな知り合いできないかな。
いつかは英語で読破したい一冊。