2019年2月の本

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41DVFwOBMAL._SL160_.jpg" alt="不平等との闘い ルソーからピケティまで *2" />
 

 古典派からピケティまで、不平等についてこれまで語られてきたことをざっと振り返る本。俺の経済学の知識にはだいぶ偏りがあるので、こういう概観してくれる本はありがたい。新書とはいえズブの素人がそのまま読めるものでもないので、池上先生の『スタンフォード本』をペラペラめくって基礎を思い出しながら読んだ。

 それにしてもこういう格差とか不平等の話題、どうしても対立を煽りやすいので、SNSで盛り上がることも多いが、こういうちゃんとした本を読むと、基本的にSNSでの議論は意見の違い以前のレベルなので、あまり見ないようにしようと思う。

 

 

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

 

 岩井克人先生の本はこれを含めて何冊か読んだことがあるけど、それらのエッセンスをまとめたエッセイ集っぽいもの。いくつか内容的には重複するものが入っているが、大きく分けると以下の2つのテーマになるだろう。

 

1、貨幣論。貨幣というものの本質とは何か。貨幣の「価値」を担保しているのは、未来の人がそれを交換価値として受け入れてくれるだろう、という「予想の無限の連鎖」でしかない。その底の抜けたような性質ゆえ、市場における全ての活動は(コンビニでおにぎりを買う、というようなものも含めて)投機的であって、グローバル資本主義は恐慌を待つまでもなく致死的な不安定さを内包している、という。

右足を上げて、そのまま右足を下ろさずに左足を上げて、今度は左足をそのままに右足を上げて…とやっていくと、宙に浮くことができる!というのは笑い話だが、我々が当然のように受け入れている貨幣というシステムはまさにそのようにして成立している、という笑えない話。

 

2、法人論。これは『会社はこれからどうなるのか』(就活生にも勧めたい名著)という本で詳しく書かれているが、その要約的な内容。法人、すなわち会社という存在は、その名の通り、「法における人」であって、それ自体は人ではないが、法律上は人として扱うという不思議な存在である。資本主義システムにおけるコアプレイヤーである株式会社は、まさにその「人(モノを所有する存在)とモノ(所有される存在)」という二つの格を同時に持っている奇妙な存在であり、その皮を一枚一枚むいていくと、実はそれを支えているのは「信任」という、一見市場原理とは縁遠い概念だった、という話。

法人実在説と法人否認説というのは哲学でいう観念論と実在論のようなもので、いまだに決着がついていないらしい。法人否認説的な認識の強いアメリカでは株主重視の経営が重んじられるのに対して、法人実在説をとる日本型資本主義で、持ち合い株式みたいな慣習がなかなか消えないのがよくわかる。

日本型資本主義は市場原理を歪めるのでよくない、アメリカのような株主重視の経営にシフトしていくべきだ、という主張のもとにいま、コーポレートガバナンスコードなんかが導入されているわけだけれど、岩井先生の本を読む限り、一概にそうとも言えないらしい、ということがわかる。このへんは仕事にも関わる部分なので勉強しなくてはならない。

 

上の2つのテーマを変奏する形で、井原西鶴の『新日本永代蔵』や、古代ギリシャの『美しきヘレネー』の神話を読み解いたりしていて、面白い。資本主義システムというのは、それが果たして人類にとって良いものか悪いものかという問いは別にしても、どうやら人間の普遍的な一面の反映であることは間違いない。そして人間が完璧ではないように、そこから生み出されたプログラムも当然多くの問題を抱えている。

 

 

 このあいだ、「セックスを至上価値としない新しい世代の若者が、旧弊な価値観を押し付けるオッサンのクソリプを一蹴!スカッとした!」的なツイート*4を見かけた。個人的には「フーン、よかったね」という感想でしかないのだが、そういう人たちにはウェルベックの文学なんてばい菌扱いだろうな、と思う。

 

闘争領域は経済から恋愛へと拡大する。市場原理に任せた自由な経済活動の結果として格差が広がったのとパラレルに、自由恋愛によってモテる者とモテざる者の格差は広がっていく。

ちょっと前に流行ったKKO(キモくて金のないおっさん。こういうのがバズワードになるのってすごい。)も、法的権利の上では平等だが、経済と恋愛の二つの市場では完全に弱者だ。前述の「解脱した」若者のように、そういう不毛な闘いからおりることのできる人はいいが、「そうはいったって非モテはつらいよ」「なんだかんだお金は欲しいじゃん」という人が自らの欲望を素直に表明しにくい社会になりつつあるのは感じる。

まあ、俺は非モテでも職無しビンボーでもないので知らんけど。

 

このあいだ橘玲が書いてた欧米の非モテ(Incelと言うらしい)の記事なんかまさにウェルベック的である。欧米各地で非モテがリビドーを持て余してテロを起こしている。恋愛格差が広がって、Winner takes allになると非モテは困るので、むしろ一夫一妻制を支持するという。まあ当たり前の話ではある。

橘玲は『マネーロンダリング』を読んだ時から好きだけど、最近ではどんどんキワモノに近づいていっている気がして、微妙。まあもともとアウトサイダー感むき出しの芸風ではあるんだけど、そういう芸風の人が科学的ファクトみたいのを持ち出してくると、なんかアレじゃないですか。)

 

セックスがウェルベック作品の主題の一つであることは間違いないが、底流にあるのは人生に対する虚無感だろう。

「ある人生が空っぽで短いということは十分あり得る。日々が虚しく過ぎ去っていく。痕跡も思い出も残さない。それからある日突然、停止する。」

こういうところは素晴らしいっすねー。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

*4:「人生が楽しくない、意味がない」みたいな若者のツイートにオッサンが「セックスは経験したか?」とかキモいリプライしてるのに対して「そういうのを至上価値だと思ってしまう人はかわいそうだ」みたいな返事してるやつ。やれやれ。