2019年2月の本

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41DVFwOBMAL._SL160_.jpg" alt="不平等との闘い ルソーからピケティまで *2" />
 

 古典派からピケティまで、不平等についてこれまで語られてきたことをざっと振り返る本。俺の経済学の知識にはだいぶ偏りがあるので、こういう概観してくれる本はありがたい。新書とはいえズブの素人がそのまま読めるものでもないので、池上先生の『スタンフォード本』をペラペラめくって基礎を思い出しながら読んだ。

 それにしてもこういう格差とか不平等の話題、どうしても対立を煽りやすいので、SNSで盛り上がることも多いが、こういうちゃんとした本を読むと、基本的にSNSでの議論は意見の違い以前のレベルなので、あまり見ないようにしようと思う。

 

 

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

 

 岩井克人先生の本はこれを含めて何冊か読んだことがあるけど、それらのエッセンスをまとめたエッセイ集っぽいもの。いくつか内容的には重複するものが入っているが、大きく分けると以下の2つのテーマになるだろう。

 

1、貨幣論。貨幣というものの本質とは何か。貨幣の「価値」を担保しているのは、未来の人がそれを交換価値として受け入れてくれるだろう、という「予想の無限の連鎖」でしかない。その底の抜けたような性質ゆえ、市場における全ての活動は(コンビニでおにぎりを買う、というようなものも含めて)投機的であって、グローバル資本主義は恐慌を待つまでもなく致死的な不安定さを内包している、という。

右足を上げて、そのまま右足を下ろさずに左足を上げて、今度は左足をそのままに右足を上げて…とやっていくと、宙に浮くことができる!というのは笑い話だが、我々が当然のように受け入れている貨幣というシステムはまさにそのようにして成立している、という笑えない話。

 

2、法人論。これは『会社はこれからどうなるのか』(就活生にも勧めたい名著)という本で詳しく書かれているが、その要約的な内容。法人、すなわち会社という存在は、その名の通り、「法における人」であって、それ自体は人ではないが、法律上は人として扱うという不思議な存在である。資本主義システムにおけるコアプレイヤーである株式会社は、まさにその「人(モノを所有する存在)とモノ(所有される存在)」という二つの格を同時に持っている奇妙な存在であり、その皮を一枚一枚むいていくと、実はそれを支えているのは「信任」という、一見市場原理とは縁遠い概念だった、という話。

法人実在説と法人否認説というのは哲学でいう観念論と実在論のようなもので、いまだに決着がついていないらしい。法人否認説的な認識の強いアメリカでは株主重視の経営が重んじられるのに対して、法人実在説をとる日本型資本主義で、持ち合い株式みたいな慣習がなかなか消えないのがよくわかる。

日本型資本主義は市場原理を歪めるのでよくない、アメリカのような株主重視の経営にシフトしていくべきだ、という主張のもとにいま、コーポレートガバナンスコードなんかが導入されているわけだけれど、岩井先生の本を読む限り、一概にそうとも言えないらしい、ということがわかる。このへんは仕事にも関わる部分なので勉強しなくてはならない。

 

上の2つのテーマを変奏する形で、井原西鶴の『新日本永代蔵』や、古代ギリシャの『美しきヘレネー』の神話を読み解いたりしていて、面白い。資本主義システムというのは、それが果たして人類にとって良いものか悪いものかという問いは別にしても、どうやら人間の普遍的な一面の反映であることは間違いない。そして人間が完璧ではないように、そこから生み出されたプログラムも当然多くの問題を抱えている。

 

 

 このあいだ、「セックスを至上価値としない新しい世代の若者が、旧弊な価値観を押し付けるオッサンのクソリプを一蹴!スカッとした!」的なツイート*4を見かけた。個人的には「フーン、よかったね」という感想でしかないのだが、そういう人たちにはウェルベックの文学なんてばい菌扱いだろうな、と思う。

 

闘争領域は経済から恋愛へと拡大する。市場原理に任せた自由な経済活動の結果として格差が広がったのとパラレルに、自由恋愛によってモテる者とモテざる者の格差は広がっていく。

ちょっと前に流行ったKKO(キモくて金のないおっさん。こういうのがバズワードになるのってすごい。)も、法的権利の上では平等だが、経済と恋愛の二つの市場では完全に弱者だ。前述の「解脱した」若者のように、そういう不毛な闘いからおりることのできる人はいいが、「そうはいったって非モテはつらいよ」「なんだかんだお金は欲しいじゃん」という人が自らの欲望を素直に表明しにくい社会になりつつあるのは感じる。

まあ、俺は非モテでも職無しビンボーでもないので知らんけど。

 

このあいだ橘玲が書いてた欧米の非モテ(Incelと言うらしい)の記事なんかまさにウェルベック的である。欧米各地で非モテがリビドーを持て余してテロを起こしている。恋愛格差が広がって、Winner takes allになると非モテは困るので、むしろ一夫一妻制を支持するという。まあ当たり前の話ではある。

橘玲は『マネーロンダリング』を読んだ時から好きだけど、最近ではどんどんキワモノに近づいていっている気がして、微妙。まあもともとアウトサイダー感むき出しの芸風ではあるんだけど、そういう芸風の人が科学的ファクトみたいのを持ち出してくると、なんかアレじゃないですか。)

 

セックスがウェルベック作品の主題の一つであることは間違いないが、底流にあるのは人生に対する虚無感だろう。

「ある人生が空っぽで短いということは十分あり得る。日々が虚しく過ぎ去っていく。痕跡も思い出も残さない。それからある日突然、停止する。」

こういうところは素晴らしいっすねー。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

*4:「人生が楽しくない、意味がない」みたいな若者のツイートにオッサンが「セックスは経験したか?」とかキモいリプライしてるのに対して「そういうのを至上価値だと思ってしまう人はかわいそうだ」みたいな返事してるやつ。やれやれ。

2019年1月の本

今月は以下。

『世界という背理』(竹田青嗣

企業価値の神秘』(宮川壽夫)

肉体の悪魔』(ラディゲ・中条省平 訳)

 

世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)

世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)

 

 吉本隆明小林秀雄。名前はめちゃくちゃよく目にするし、なんかとりあえずすごい人なのは知ってるけどその思想まではちゃんとわかってない人たち。だったけど、この本のおかげでちょっとわかった。スーパー雑に言うと、小林秀雄「個人の絶対性、感性、それすなわち悲劇…」な人で、吉本隆明「いや、言うてもなんらかの客観性・共通性がないとなぁ…」という人っぽい。小林秀雄に関しては、『考え方のヒント』の中で美術について書いてるのを数年前に読んだ時にあんまり納得いかなくてモヤッとしたことがあるので、俺はもうちょい吉本隆明をちゃんと読んだらバランスがとれるのかもしれない。(ところで文春文庫の『考えるヒント』はタイトルの付け方からして、サラッとした人生論とかそのテの本かと思って手にしたらガチガチの芸術論で放り投げる、という人が多そう。どこが「ヒント」なの、あれ?)

 

何はともあれ、もうちょっと勉強したい。でもこの世代の人たちについてやろうとすると、よう知らん世代論とか、「文壇すったもんだ」みたいのがついてくることが多くて、そこがな。そういうのも個人の思想と不可分だ、と言われたらそうなのかもしれないけど。

 

企業価値の神秘

企業価値の神秘

 

 一応仕事用の本として買ったけど、すごく面白かった。数式見ただけでクラクラしてくるタイプの人間でも読み通せるように書かれている。「あーこれ講義でも笑いとってんだろうな」っていう感じの語り口で(時々いかにも大学の教授がウケ狙いで言って滑りそうな感じもあるが、ご愛敬)、大変に読みやすい。この講義を受けられる学生はラッキーですね。この手の本でこういうリーダブルな読み物になっているやつは貴重。値段はそれなりにする(3500円。メルカリでもうちょい安く買った)が、その価値はあると思う。同じようなジャンルで売れてる『バリュエーションの教科書』より読みやすいんじゃないかな。立ち読みで比べただけだからわからないが。向こうはあくまで「教科書」だしね。ちなみに今の仕事の前に、野口真人さんの本ファイナンスはちょこっとかじっていた。内容としてはこっちの方が一般向けで簡単。でもやっぱり実務に役立てようと思って読むほうがスッと頭に入ってくる。


それにしても、勉強すればするほど、個別株投資なんて俺には無理だと思ってしまうよ。ファンドマネージャーってすげえ。俺はおとなしく「投信でほったらかし資産形成♪」みたいなホンワカしたやつをやりますわ。

 

 

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

 

 ブックオフで300円。いいのか、古典の名著が。話の筋だけ言えば、年上の人妻に手出しちゃいました、妊娠させちゃいました、ってゲスの極みなんだけど、15歳と19歳だからね…えぇ…って感じではある。そして15歳とは思えない至言のオンパレード。「彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れて欲しいのか、僕にはわからなかった。」なんて、俺にもわかんねえよ。冷徹な観察眼と自省の力がありながら、幼さゆえの身勝手も全開なので、本当に恐ろしい。

ちなみに寝取られた旦那はろくに顧みられず、「まあ所詮タイミングみたいのでラッキーで結婚できた甲斐性無しだから」みたいな扱いでひたすらかわいそう。

サマセット・モーム

「短編小説の最高峰」という触れ込みに誘われて読んだ『雨』(とその他二篇)がけっこうおもしろく、読まねばと思ってずっとウィッシュリストで放置していた『月と六ペンス』も続けて読んだらこれもまた悪くなかったので、短編集『ジゴロとジゴレット』もあっという間に読んでしまった。

というわけで11月は自分の中でひっそりとプチ・サマセットモームブームであった。

 

モームは通俗作家という批判もけっこうあって、まあ確かにこれだけエンターテイニングで読みやすければそういわれるのも無理はないという気がする。

 

通底するのは人間の多面性というようなところか。『雨』にはそれが最もドラマチックな形で結実している。

短編における人物の描写の仕方は、ちょっと「あるある(いるいる)ネタ」っぽいところもあって、確かに他の古典作家と比べたら深みに欠けるという印象もなくはないが、それがむしろ自己同一性という概念の危うさを表現するのに一役買っている。それはそれでリアルというか、なんだかんだ薄っぺらくて表面的で、「あるあるネタ」に収まってしまう人間の哀しみみたいなものがある。

 

そういう観察の結果としてのシニカルさ、「まあしょせん人間」みたいのがモームにはある。だから読後感としてはドキっとさせられたり、チクリとやられるようなものも多いけど、短編『サナトリウム』みたいに油断させておいてホロリとさせるようなのもあって、なんだ、本当は人間好きなんじゃん、とちょっと小突いてやりたくなったりする。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 
雨・赤毛 (新潮文庫―モーム短篇集)

雨・赤毛 (新潮文庫―モーム短篇集)

 
ジゴロとジゴレット: モーム傑作選 (新潮文庫)

ジゴロとジゴレット: モーム傑作選 (新潮文庫)

 

 

堀江敏幸『河岸忘日抄』

いつ読んだかいつ感想を書いたかもあんまり覚えてないが、Evernoteに転がってたから放出しておく。
 
 
昨年仕事を辞めた後、半年くらい無職だった。「充電期間だね」と言ってくれた人もいたが、そんな風に意味のあるものとして捉えたくない時もある。
ただの足踏みの時を過ごすことのよく意味を考えた。
 
仕事に疲れた主人公が、かつて縁のあったフランスの老人が所有し、河岸に係留された船に仮住まいをするというなんともオシャンな設定。
大きな起伏はないが、非日常の話である。こういうのは「ハレ」とは言わないのだろうか?
日常からの一時戦線離脱。モラトリアム。なんて甘美な響き。
プッツァーティの『タタール人の砂漠』が、待つことの愚かさを説いた物語なら、こちらは待つこと、ためらうことの贅沢さを描いた物語だろう。
とにかく決断し、行動することこそが優秀さの証だとされる社会の中で、ためらうこと・人生にポーズをかけることの意味は軽視されているように思う。
 
無職期間に読むべきだった小説かもしれないが、次の停泊期間が来たらまた読み返そう。

村上龍『「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL)』

 

「わたしは甘えているのでしょうか?」(27歳・OL) (幻冬舎文庫)
 

 

ちょっと笑えるタイトル。人生相談本って、なかなかまともなのがないような気がして、そういうのが読みたいなと思っても(弱ってる時期とか、そういう時ある)、自己啓発本とか、偉そうなじいさんばあさんの自分語りばっかりなんだけど、これはなんと言っても村上龍が書いている。何がいいかって、とにかくアドバイスが現実的なんですよね。「信じていれば大丈夫」とか、そういうのは一切言わない。お金を貯めたかったら、いい財布を買いなさい、みたいなのもない(お金を貯めたい人にお金を使わせるなんて、ほとんど詐欺だ)。
好きなのは例えば、「自己投資だと思って買い物したり美味しいものを食べに行ったりしているので、雑誌に載るようなイケてるお店はたくさん知っている」という人に対して、「そういうのは投資じゃなくて単なる浪費です。」とか。バッサリ。「確かに美味しいものを食べたり着飾ったりするのは素敵なことだけど、別にそんなもの一生縁がなくたっていいんです。」メディアが提供しているキラキラした生活については、「そういうのは単なる広告です」というスタンス。「丁寧な暮らし」だって、同じようなものだと思う。誰も本当にはそんなキラキラした暮らしをしているわけではないし、いたとしても、それはプライバシーを売ったりした上に成立した、広告塔としての「仕事」なのだ。プライバシーを売る、ということは普通の人が考えるよりも、大きな犠牲だ。
同じように、若いうちに人生楽しまないといけない、と思ってついファッションにお金を使ったりしてしまう女性に対して、「そういう思い出だけでは、人は生きていけないんです。」痺れるね。なんだかんだ村上龍だってイタリアのシャツの良さについてエッセイ書いたりしてるじゃないか、と思わないでもないけど、でもこんなに庶民的というか、名もなきマスに必要な回答ができるのはすごい。とても米軍基地でヤクやって暴れてた人とは思えない。
若いF1レーサーの話が出てきて、「僕だって同年代の友達みたいに、女の子と遊んだりしたい。でも、そういうのを我慢してでもF1で優勝できたら、その喜びは何年も何十年も続くと思うんです」という言葉を紹介している。ウンウン、そうだよな。
もちろん、本当に役に立つ助言がしばしばそうであるように、村上龍も決して甘いことを言ってごまかしたりはしない。「努力が報われない」という人に対しては、「あなたのいう努力が、求めるアウトプットと繋がっていなければ、なんの意味もない」と答えるし、いつまでも自分探しをする人に対しては、「なんとかして食っていかなければいけないという問題から、逃げているだけです」。目をそらしてはいけないことについては、「そらすな」ときちんと言うところに、誠実さを感じる。
他にもたくさんの実際的なアドバイスがあるけど、もし俺が一つだけこの本からメッセージを選ぶとしたら、「自分の人生に優先順位をつけろ」ということに尽きる。世の中にはキレイなもの、素敵なものが溢れているけど、それらの多くは一生縁がなくたって平気なものなんだ、自分にはもっと欲しいものがある、と思えたら、人生はぐっと楽になると思う。欲しいものを全て手に入れることをできない、ということを認めるのは辛いし、地味なことだけど、でも本当に人生に意味のある変化を起こすのは、そういうことを一つ一つ確かめていく過程にあるんじゃないか。
 
ちなみにこのジャンルでもう一つ定評のあるのは橋本治の『青空人生相談』。
青空人生相談所 (ちくま文庫)

青空人生相談所 (ちくま文庫)

 

 

4月に読んだ本

並行してアンダソンの短編を読んだりもしていたのだが、『八月の光』をじっくり読んでいて気がついたら月末だった。『タタール人の砂漠』は3日くらいでサラッと読めた。やっぱりガイブンはいいですね。

 

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(上) (岩波文庫)

 

 

「人間っていうのは、ほとんどどんなものにも耐えられるみたいだ。自分がやってないことにも耐えられる。こんなことにはとても耐えられない、と考えることにも耐えられる。頑張らずに泣いてよくてもそんなことはせず、それに耐えることさえできる。振り返らないことにも耐えられるーー振り返っても振り返らなくても何の役にも立たないとわかっているときでさえそうなんだ。 」

 

久しぶりにどっしりとした読書体験をしたという気がする。人物造形や怒涛の比喩によるねちこい描写には言われる通りドストエフスキーの影響を感じるけど、最後のあたりになると突然文章のあいだに風が吹きはじめるようになってくる。フォークナーは意識の描写が特徴的で、たぶんカギカッコは登場人物が意識して考えていることで、太字(原文だとイタリック体かな?)で書かれているのは半ば無意識の想念なんだと思うけど、そういう二階建ての思考の描き方がすごくリアルな上に、濁流のように流れるもんだからあっけにとられる。ちょっとガルシア=マルケスっぽいところもある。
主人公のクリスマスが自分に黒人の血が混じっていることで苦悩するんだけど、白人からは「くろんぼの血め」とさげすまれ、黒人からもブラザーとは呼ばれず、という寄りどころのない境遇は、けっこう読んでいてつらい。「俺の中の黒い血が…」とか言うもんだから、これを「南部式の邪気眼による生きづらさ」と言ってる人がいて笑った。自分を捨てた恋人を信じてどこまでも追いかける信念の人、リーナとのコントラストが光る。恋人と再会するシーンはかなりえぐくて、男ってマジでダメだな…と思うと同時に、リーナが無敵すぎてこわい。周りを固める登場人物たちも、だいたいダメなやつか頭おかしくなったやつしかいないんだけど、すごく生き生きとしている。不思議とさわやかな読後感だった。
アメリカの小説はそこそこ読んできたけど、南部の物語、特に人種問題に関わる作品って実はこれまでまともに読んだことがなくて、確かにアメリカという国の面白さ(と言ってはいけないのだろうけど)は人種問題とは切り離せないのだろうと思いつつも、なぜかそういった要素が入った作品は避けてきたところがあった。『アラバマ物語』とか、まだ読んでないし。日本人である自分には、究極的には人種問題を理解することは不可能だ、と思っているからかもしれない。もちろん、知識とか一般常識とは別のレベルの話として。あとはまあ好みの問題で、ようするに埃っぽいの好きじゃないんですよね。でもとにかく、こういうフルボディな読書体験は北部の「都会的」な作品ではできないなあ、と思った次第でこれからもちょくちょく手を出してみようと思う。フォークナーはあんまり埃っぽくなかったので、次は『怒りの葡萄』読みたいな。埃っぽいだろうな。
 

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)
 

 

 「つまり、われわれにだってなにか価値あるものが常に巡ってきているんだ。…おそらくわれわれはあまりにも多くを期待しぎるのかもしれない、実際にはなにか価値あるものがわれわれにも常に巡って来ているのに。」

「じゃあ、われわれはどうしたらいいんですか?」

「私はどうもしないさ。…私はもう待ちすぎたからな。」

 

「俺の人生、これで終わるはずがない」という気持ちは、多かれ少なかれ誰でも持っていたことがあるのではないだろうか。賢い人から順番に捨てていくやつである。青春ともいう。そんなテーマの小説。
敵がやってくるかもわからない、国境沿いの砂漠に立つ砦。配属された兵士たちは、いつか北の国境を越えて伝説のタタール人の軍勢がやってくることを夢想しながら人生を浪費している。主人公のジョバンニ中尉も、こんな退屈な場所とはすぐにオサラバだ、と思いながら転任してくるのだが、次第に砦の圧倒的な日常性に飲み込まれていき、任期は数年、数十年と延びていく。若さが、人生が圧倒的な速さで「遁走」していくのを見ないフリしつつ、甲斐なく国境を眺め望遠鏡をのぞき込む毎日。そして物語の最後、いよいよ北の軍勢がやってきたかと思われたその時、ジョバンニは…。切ない、というより、残酷なラストである。
カフカの寓話的な短編、『掟の門』を思い出す。ブッツァーティは、イタリアのカフカとも呼ばれているらしい。人生の有限性を思い出させるという意味では、トルストイイワン・イリイチの死』も近いかもしれない。どちらもすごく短い話なので、それを長編小説にするとこうなるのか、と思った。300ページももつのか、という不安があったが、ときどき日常に亀裂を入れるような事件が発生して、飽きさせない。だからこそ、兵士たちはぐずぐずと砦に残っているのだ。まるで思わせぶりな態度で男を振り回す悪い女である(あるいは思わせぶりな態度で乙女を傷つける男)。でも、実は印象に残ったのは、風景の美しさだったかもしれない。砂漠に昇るギラギラとした朝日や、ゆっくりと沈んでいく夕日、地平線にかかる霧。そういう描写が控えめに出てくるのだが、兵士たちがそれに目をとめることはほとんどない。もしも彼らが兵士ではなく、詩人だったなら…と思う。人生そのもの、といった感じの小説だ。ブッツァーティの短編『神を見た犬』が光文社の新訳文庫で出ていて、昔友人に勧められたのでそのうち読んでみたい。

3月ブックレビュー

このほかにも色々読んではいたんですが。カーヴァーの短編をじっくり読み直してみたり、ようやく経営戦略・ビジネスモデル全史を読んだり(面白かった)、久しぶりに大江健三郎(『個人的な体験』)を読んだり。
まあしばらくは気が向いたやつだけを書く感じでいこうと思います。
 
※『なぜ心を読みすぎるのか』のために何日か保留していたんだが、やっぱりどうもどこに焦点を当てたらいいかわからず、諦めた(つまらないという意味ではないです)。一応最後までは読んだんですが。気になる人は直接聞いてください。

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

 
我輩は資本論あんちょこ本マイスターである。原典はまだ読んでいない。これは資本論の解説本かというと違うのだけど。
稲葉振一郎という人には地味に注目している。
文体にはちょっとクセがあるけど、個人的な偏見とか、レッテル貼りみたいもの(「ヘタレ中流インテリ」とか)を交えてくれるので、けっこう笑える。素人にとってはそういうソフトな知識以前のなにかが理解とか興味の足掛かりにもなったりする。『経済学の教養』も面白かった。
中身については語る自信がないので、ガワの話でお茶を濁しておきます。
 
 

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映画だけど、個人的に久しぶりのヒットだったので入れちゃう。
オーディションで選ばれた若手の劇団員たちが、上演を数カ月後に控えた芝居の稽古をするのだが、直前になってオトナの都合で上演中止が決定する。やり場のない気持ちを爆発させる劇団員たち…。
ありがちなストーリーではあるんだけど、演劇モノとして74分ワンカットという演出が抜群に効いている。74分間緊張が続くわけで、観ている側の感覚としては映画よりも舞台作品を観ているのに近い。劇中劇もあるのでけっこうわけがわからなくなる。
軽くネタバレになってしまうけど(それによって本作の面白さが損なわれることはない)、ラストシーンはカーテンコールで舞台上に勢ぞろいした俳優たちの姿で終わる。つまり、スクリーンを通じて舞台を観るという不思議な構図のカットになるわけだが、超長回しの大役を終えたカメラマンの腕がわずかに震えていることがわかる。その瞬間に、この映画の虚構性が頂点に達する。目の前の映画館のスクリーンが、下北沢・本多劇場の舞台に変わったかのように錯覚する。スゴイ。エンドロールに入ると同時に「お疲れ様でーす!」の声でスクリーンの中の役者も観客もホッとする。明転後の心地よい疲れは完全に舞台を観終わった後のそれで、つい拍手しそうになってしまった(実際にしているお客さんもいた)。
エモ一直線なMOROHAの音楽も、この映画の劇伴としてはぴったり。ちょっと日常では恥ずかしくてあんま聴けないけどね。MOROHAの二人は実際に劇中に登場していて、劇団員たちが稽古している真横で暑苦しく(失礼)歌ったりしている。劇団員たちにはその姿は見えていないし、歌声も聴こえていないという設定なんだけど、ふとした瞬間にMOROHAのいる方向をじっと見つめる。その演出もすごくよかった。
皆さんぜひ観てください。ユーロスペースではまだやってみるみたいだし、全国まわってほしいですね。
正直観る前はいかにも青臭い設定と演劇的なタイトルで入り込めるかかなり不安だったけど、見事にやられました。2018年暫定ベスト(といっても今年そんなに観てないんだが)。DVD出たら買っちゃうかもな…。
 
 
美代子阿佐ケ谷気分

美代子阿佐ケ谷気分

 
ガロです。すごくいいですねえ。田舎を出てきて東京で漫画書いたりフォークソング歌ったり酒飲んだりして過ごしている。やってきたはずの道がいつの間にか閉ざされている。退屈な臭気。どぶ川の愛。おお、美代子の目よ。
(ところである友人が雰囲気も含めて美代子にそっくりなのでぜひ本人に読んでもらいたい。)
 

 

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

 

 『なぜ心を読みすぎるのか』と並んでこれも社会心理学だ。別に今月そういうテーマで本を読んでいたわけではない。

どちらかというとビジネス書界隈で評価の高い著作だと思う。原書は1984年出版らしいので、このジャンルでは古典といっていいのかな。2014年に第三版が出て、だいぶ翻訳が読みやすくなったらしい。でも3000円出して買った割には、そしてその500ページ近い分厚さの割には、新しく得るものはそれほど多くなかった。(大学時代にけっこう心理学をかじったので…)
人はいかにして営業マンや広告代理店や宗教家やその他資本主義のハンターたちに操られ、しばしば非合理的な意思決定をしてしまうのか。
欧米ビジネス書の翻訳にありがちな、嘘だかホントだかわからんようなケースの羅列が飽きる。「ミズーリ州の車両部品工場で働くジェーンはある日、同僚の奇妙な行動に気がついた」…って、ジェーンて誰やねん。こういうのって典型的な確証バイアスじゃないか。
それにそれぞれの「武器」がけっこう矛盾したりしていて、もう少し深堀りする余地があると思うのだが、そうするとどんどんアカデミックな方向に行っちゃうんだろうな。
まあ何回か目を通すと、営業マンの古典的なテクニックには多少引っかかりづらくなるかもしれない。しかしわかってても引っかかるのが人情というものだ。
逆の視点から見れば、これらの多くは人間の生存本能から来ているものらしいので、
そういう本能と経済合理性のギャップを見つければ、優秀な営業マンになれる(かも)、ということである。
同じような内容をもっとコンパクトにまとめた新書もたくさん出てるはず。個人的にはそっちを読めば十分だと思う。